気づいたらなじかはしらねど新潮社。

7月2日(木)。
業務終了後、子飼へ。
目的は、古本屋(*1)。目当ては、サガン(*2)。
探索の結果、5冊購入(*3)。

帰路、自宅まであと少し、というところ(*4)まできて、会社に弁当箱(*5)を忘れてきたのに気づき、取りに引き返す(*6)。

帰宅後、まずは「夏に抱かれて」に取りかかる。
かすかな違和感(*7)。


(*1)詳細は4月22日分を参照いただきたい。
(*2)すっかりそういうことになってしまって。
(*3)内容は以下のとおり。
1)サガン/朝吹登水子訳「熱い恋」(新潮文庫)
2)サガン/朝吹由紀子訳「愛と同じくらい孤独」(新潮社刊)
3)サガン/朝吹由紀子訳「夏に抱かれて」(新潮社刊)
4)カミュ/サルトル他/佐藤朔訳「革命か反抗か-カミュ・サルトル論争-」(新潮文庫)
5)カミュ/高畠正明訳「太陽の賛歌 カミュの手帖-1」(新潮社刊)
傾向が偏っていることは認めざるを得ない。出版社が、というより、そもそも基本的に皆フランス系。しかもある一時期の。ちなみに、全部1冊100円。合計500円。なお、2)はニョーボが新潮文庫を持っているのを知っててそれでも買ったもの。だって、大きい方がなんかよいではないか、と。もちろん限度はあるにしても。それにしても、こんなに買ってきて、読めるのか?
(*4)最後のカーブを曲がったところ。距離にして約30~50m程度。
(*5)6月頃から、突然ニョーボが弁当を作ってくれるようになったのである。ありがと。
(*6)気候、翌日業務終了後宴会の予定、その他諸々の事情を考慮すると放置しておくわけにはいかぬ。やむなき行動。
(*7)これにはさまざまな要因がある。どれも、これまでわたしが読んだことがあるサガンの作品との相違点。1)書かれた当時よりも過去が舞台となっている:舞台は1942年のフランス。これまでわたしが読んできたのはほとんど、書かれた当時と同じくらいの年代、とおもわれる。2)語り口が微妙に違う気がする:これが、作家の変化によるものか、訳者の違いによるものかは判然としない。ちなみに、前者についていえば、原書は'85年の出版。サガン50歳。一方、わたしがこれまで読んできたのは、せいぜい'70年代前半。つまり、10年以上経っている。また、後者についていえば、本書の訳者は朝吹登水子氏の娘、とおもわれる。3)オフセット印刷で印刷されている:これまで読んできたのは活版印刷で印刷されていた。これはその感触が全然違うものなのである。それはわたしが以前印刷会社に勤務していたから、というわけではないだろう。そういや、全然関係ないが、今度こういうのをやる。

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「追い風ゼロのリアル」。

7月1日(水)。
「図書」7月号。巻頭の「追い風ゼロのリアル」(*1)にグッとくる(*2)。

天野屋書店(*3)でサガン「すばらしい雲」(*4)を購入。
その日のうちに読了。すっかりハマる(*5)。


(*1)高橋源一郎(作家)、平田オリザ(劇作家)両氏による対談。小説と演劇の、それぞれの近代史の比較を発端に、それぞれの現在を考える、といった様相、か。
(*2)特にグッときたのは以下のようなところ。ちなみに「○」「・」「→」は要約上の都合でつけたもの。「#」はわたしが感じたこと。
○日本語のようで日本語でない戯曲の文体が近代演劇の演技を規定している
 ・なぜ変な強弱アクセントがあるか
 例:「その竿を立てろ」という文で「竿」を協調したい時にはアクセントで強調するが、実際にはそうは言わず、「竿竿、その竿立てて」となる
  # 小学生の頃、朗読や演技の際の、なんだか身に付いていない感じの抑揚をおもいだす
○追い風がなくなって、やっとリアルということの意味がわかるのではないか
 ・明治期に漱石を凄いと思った人は、「これはリアルだ」と感じただろう
 → 時代の追い風や白熱に追って読む側のテンションが上げられている、その状態でのリアル
 ・ジャンルが成立してから終わるまで、ずっと「近代」という追い風があった。しかしいまの作品には、どういう追い風が吹いているのか考えてみても、どうも何もない。いわば追い風ゼロ。
 → 新しい人たちの劇、若い小説家の作品のリアルは、たぶん時代の追い風がゼロの状態でのリアル
  # いわゆる現代音楽って、そういう状態にあるのではないか?そもそもいわゆる現代音楽って、リアル、か?
○文学のOSが更新された
 ・仮に「OS」と呼ぶのは、世界を見る見方=この世界でどういうものがリアルだと感じるか
 ・この百年ぐらいの間では、目に見えるもの以外の何かを信用しようということだった
 → 有意義な社会的目的、自由とか社会主義とか抽象的な理念があってそれで生きていこう、ということ
 ・しかしどうも、そういう目標なしで行こうということになりつつある
 → 民主主義とか革命とか言っても、誰も信用しない。というより、素通りする。
    かといって情熱や希望がないわけでもない。そこに目標を置くということの意味がわからない
  # わたしの現在の仕事の背景は、リアルなのか?いいかえれば、それを支える理念はいま、リアルなのか?
○最前線の表現(例としては「短歌」があげられている)は、ただリアルであるしかない、まさに顕微鏡的な表現となっている。
 ・それは「言語の敗戦処理」によって生まれた
 → 顕微鏡的な言葉以外使う気になれない、望遠鏡的な言葉は使えないという感覚
○どんなジャンルでも、時代の最も本質的な部分を書く作家、詩人というのは、時代の無意識を代表することになるのだが、これは多数派であることとは別問題
(*3)上通りは並木坂にある古本屋。近くに舒文堂河島書店もある。
(*4)新潮社刊。朝吹登水子訳。原題は"Les merveilleux nuages"。函状のケース入りの単行本。奥付には、昭和37年4月10日発行 昭和42年2月10日2刷 定価450円 などと。その上の方に、ペンで書いたとみられる手書き文字で、「1967.7月1日 楠書房で 雨降り」と記載。つまり、最初の持ち主と推察されるひとが買ったのは、わたしが生まれた直後(約2~3週刊後)ということとなる。楠って、いまわたしが住んでいるところの近所なのだが、そこにあった書店なんだろうか?感慨深い。ちなみに今回の売値は800円。決して不当に高価だとはおもわない。そういや coffon にあった同じくサガンの「心の青あざ」も同じくらいの価格だったとおもう。まだあるだろうか?途中までしか読んでないから、売れてしまうとちと困るのだが。サガンの他のほとんどの作品と同様、いま絶版になってることだし。
(*5)サガンの作品に関しては、そう多く読んでいるわけではない。というか、考えてみれば、読み通したのははじめてである。「絹の瞳」は短編集ではあるがまだ全部を読み終えてはいないし。で、その限りでいえば、舞台や背景にはかなり共通するものがある。それは、ものすごく簡単にいえば、男と女、であり、愛であり、別れである。そこに妙に惹かれるのはなぜだろうか?その硬質な感触、か?湿っぽくない、乾いた抒情、とでもいおうか?

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6月23日(火)。
自宅でインターネット接続できなくなる(*1)。


(*1)というのは当然ながら自宅から書き込めない。かといって職場から書き込むわけにはいかない。というわけでこれは週末にとあるネットカフェから書き込んでいるのである。ちなみに、ネットカフェにやってきたのはサポートセンターにメールする必要があったため。書き込みは時間が余ったから。とはいえあと3分。

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そのようなものを、Gary NUMAN は "Me! I disconnect from you."とうたったのかもしれない。

6月17日(水)。
午後、業務で説明会に出席。
説明後の質疑応答の際、強い違和感。
説明会終了後、振り返るとその場に数百人の同業者。
きっとこの中には、どうしても理解できないひとたちが多くいるに違いない、本音などをいうのは極力避けよう、などと感じる、ある種の孤独感。

夜、パールの会@博多もつ鍋大山上乃裏店。
その後、岡田珈琲へ。
よくしゃべる。

同僚のクルマで送ってもらい帰宅。

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注記を書きたいことが山のようにあるのにとても書けないからといって、書けてからではとても間に合わないのであれば、不本意ながらも取り急ぐしかなかろう。

6月16日(火)。

向井山朋子「夏の旅」。

フォルマント兄弟「フレディーの墓/インターナショナル」。

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予期せず突然現れる、最後のページの空白。

6月14日(日)。
ぎざから起こされたついでに練習など。

朝食後、ニョーボと家事いろいろ。
とりあえず、あれこれ片付いてきれいになったのはよかった。
カラッとしたいい天気だったことだし(*1)。

ひさしぶりに NHK-FM「現代の音楽」を。
ゲスト、高橋アキ(*2)。
メシアン。「音価と強度のモード」。一度聴いてみたかったからよかった(*3)。

夕食時、缶ビール2人で1本。
これもひさしぶり(*4)。

寝る前にサガン。「絹の瞳」(*5)。
これまたひさしぶり(*6)。


(*1)梅雨に入ったとはいえ。
(*2)敬称略。
(*3)もちろん、聴いただけで内容はよくわからなかったのだが。
(*4)当社比。
(*5)詳細は5月26日分に。
(*6)短編集ということもあり、寝る前に一編だけ読む、と決めていたのだが、ここ2週間ほど読んでいなかった。この2週間というのはあれやこれやでなんだか精神の働きが止まってしまったかのような状態だったのだが、なんだかやっと少し動き出したかな、という感じ。ラジオで「現代の音楽」を聴くのもそのひとつの現れ。それにしてもサガンの短編。強いて例えれば、一つの場面。その世界にすぐに引き込まれ、いろんな情景や心理をみせられ、あっという間に最後のページの空白を迎える。あの、予期せず突然現れる空白がよいのだな。ここでは事前に目次でページ数の確認などしないのが肝要。

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結果として3年経っていながらも同じようなことを繰り返しているとは。

6月13日(土)(*1)。
午前、SW練習@春日ふれあい文化センター。
ということで早起き(*2)してT車乗り合わせで福岡へ。

練習。個人的には忸怩(*3)。

終了後、昼食。4人で近くの「フォーバック」(*4)へ。

帰宅後、しばらく倒れる。

夕方、ニョーボと市内中心部へ食事に(*5)。行き先は「Bros.よしむら」(*6)。
料理すばらし。
店のひとたちといろいろ話をしたりして、結局長居(*7)。

帰路、蔦屋書店熊本三年坂店に立ち寄り。
酔った勢いであれこれいきそうになるが、この日は思い留まる(*8)。

タクシーで帰宅。


(*1)この日でわたしは生後42年となる。ちなみに前年は素数歳だったし次年もまた素数歳という、ある意味「素数歳の谷間」状態。
(*2)当社比。具体的には5:00。
(*3)直近の1~2週間、諸般の事情で練習がほとんどできていなかったことが直接的には影響したものとみている。しかし、根本にあるのは、簡単にいえばわたしの浅さ、ということとなるか。それにしても細かいパッセージが苦手。これは今回のプログラムではある意味致命的。
(*4)ベトナム料理の店。ランチ980円。チャーハン(小)+生春巻+約10種類の中からお好みのフォー+ドリンクorデザート、といった構成。
(*5)いわゆる誕生日と、その前週に迎えた結婚記念日の祝いを兼ねる。
(*6)カウンターのみの洋食店。わたしがいくのは2回目。ちなみに前回いったのはいつ?とおもって調べてみたらどうやら2006年6月3日。もう3年経っていたとは。
(*7)滞在時間3時間ほど。結果的に、この日も偲ぶこととなる。それにしても、前回いった際も滞在時間は3時間ほどだったみたい。
(*8)まず、引っかかったのは「レス・ポール読本」と「レッド・ツェッペリン コンプリート・ブック」。幸いそのうち酔いが醒めて購入には至らず。「ジミー・ペイジ ギタリスト飛龍力50年」なる本も読んでみるが、事実関係はともかくとして、いまどきドラッグと黒魔術でジミー・ペイジを語っても仕方ない、という印象。なお、今回も「フッサール」を手にとって読んでみるが、またしても見送り。いい加減思いきって買って読めばいいのに。それにしても、「Bros.よしむらに3時間」→「蔦屋書店熊本三年坂店で1時まで」というのは3年前と全く同じパターンになっているとは。いや、今回は何も買ってないのだが。

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6月7日(日)。
夕方、ニョーボと外出。市内中心部へ。多少まとまった買い物。

タワーレコード熊本店。Led Zeppelin「Physical Graffiti」。

店から出たら、中古レコード店「Oh!」の店主のおっさんの姿。
生きてたか。
店、再開か?

「花番地」。

「森山」で定食。

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6月6日(土)。
夕方、家電量販店めぐり。

ベスト電器 → ヤマダ電機 → ベスト電器 → コジマ → デオデオ

もうすぐ、終わる。

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5月31日(日)。
この日、本番。

午後、演奏会。
あれこれやってみるが、結果イマイチ。
忸怩。

打ち上げ、壱之倉庫。
二次会まで参加。

帰路、蔦屋書店熊本三年坂店へ。
酔ってはいたが「フッサール」、この日も思い留まる。

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